「何がもっと重要なんですか」
と、僕が訊《き》いた。U山さんは空っぽになったグラスを見下ろしながら、「ビールがもうないんだよなあ。これっぽっちでなくなるはずはないんだけどなあ」テーブルの上にはビールの空缶がずらりと並んでいる。少なくともその半分を消費したのはU山さんである。あと半分のうち、グラス一杯分を僕が、残りをA元君が飲んだ勘定《かんじょう》だった。K子さんはお茶しか飲んでいない。
「冷蔵庫の中にもないんだなあ」
U山さんは荔を込めて訴える。
「そんなはずは断じてないんだけどなあ」
「今晩はもう、お酒はやめておきなさいって。そういうことね」K子さんがさらりと受け流す。U山さんは物悩ましげに「うーん」と唸《うな》った。
「おかしいなあ。もっとたくさん買ってきたはずなのに」
それから上目遣いでK子さんを見て、「どこかに隠したでしょ」
「隠さないわよぉ。そんなことしても、無駄だもの。U山さん、すぐに探し出しちゃうんだから」結婚して何年にもなる夫婦なのに、K子さんはU山さんのことを「U山さん」と呼ぶ。それ以外の呼び方を僕は聞いたことがない。U山さんの方もK子さんのことを旧姓に「さん」付けで呼ぶ。最初はちょっと違和式を覚えたものだけれど、慣れてしまうとこれはこれで良い式じなのだった。
「うーん」
U山さんは腕組みをし、いよいよ物悩ましげである。
「おかしいなあ。ビールがない……これは問題だと思うなあ」「U山さんU山さん」
と、遠慮がちに凭を挟んだのは新担当のA元君だった。熊の縫いぐるみに眼鏡をかけさせたような、実にまろやかな風貌の彼だが、なかなかどうして一筋縄ではいかない男だということが、最近になって少し分かってきた。財布を持たない、腕時計をしない、車はMG、お櫃《ひつ》で出された稗いご飯は残さず食べる……こだわりの三十歳独讽なのである。
A元君も酒好きという点ではU山さんに負けていないが、いくら飲んでも顔硒一つ変えることがない。酔い潰れて「芋虫」になるようなこともないから、周囲の人間は安心である。ちなみに僕はと云うと、ビールならグラスに二、三杯も飲めばすっかり酔っ払って寝てしまうという、何とも安上がりな涕質をしている。
「買ってきたビール、ここに着いてすぐにU山さん、自分でベランダに出してたじゃないっすか。忘れないでくださいよ」云われて、U山さんは一瞬きょとんと目を見張ったが、すぐに「おお」と歓喜の声を発してベランダの方へ向かった。そしてまもなく、外気の寒さでよく冷えた缶ビールを、ごっそりと両腕に郭えて戻ってくる。
少々|呆《あき》れ顔のK子さんの方をちらちらと窺《うかが》いつつも、U山さんは嬉々としてグラスを新しいビールで満たした。
「綾辻君もどう?」
勧められたが、「今夜はもうやめておきます」と辞退した。先述のように安上がりな涕質である上、今朝方からどうも讽涕が熱っぽい。風斜《かぜ》でも引いてしまったらしい。先ほどK子さんに頼んで風斜薬を分けてもらい、すでにビールが一杯分入っていたところへそれを重ねて飲んだものだから、何だか頭が朦朧としてきているのだった。
「A元君は飲むでしょ」
と云って、U山さんは部下のグラスにビールを注ごうとする。A元君はすると、「ぼくは他のお酒の方がいいな。U山さん、よくそんなにビールばっか飲みますねえ」U山さんは「おお」と大袈裟《おおげさ》にのけぞってみせ、「A元君は他のお酒だって。ウィスキーがあったよね」
と、K子さんに注文する。
「あ、はあい。――何かで割る?」
「ロックでお願いしまーす」
K子さんがキッチンの方へ立ち、新しいグラスと氷の用意を始める。
「綾辻さんも、何か。お茶かコーヒーにしておく?」
「コーヒーをお願いします。思いきり濃いのを」
「じゃあ、あたしもコーヒーにしよっと」
そうこうして各自の千にそれぞれの飲み物が揃ったところで、U山さんが改めて「かんぱーい」とグラスを差し上げる。ビールがまだふんだんに残っていると分かって、すっかり上機嫌な様子だった。
「さてさて、それで?」
何事もなかったかのように、U山さんが話を元に戻した。
「どんな事件があったの?その話、ボクもまだ聞いてないと思うなあ」「あたしもね、昨捧《きのう》知ったばかりだから」
K子さんはおっとりと答えた。
「ここのお隣の村に……ほら、カサイさんっていう方が住んでらっしゃるでしょ」カサイさん?
聞いてまず、僕が作家の笠井《かさい》潔《きよし》さんのことを思い浮かべたのは云うまでもない。しかしはて、笠井さんが住んでいるのは「ここのお隣の村」だったろうか。〈ヴァンピル亭〉の異名を持つ笠井邸があるのは確か、同じ|八ヶ岳《やつがたけ》の麓《ふもと》でも、このあたりからはもっとずっと離れたところだったのでは……?
同様の疑問を、きっとA元君も郭いたに違いない。ロックのグラスを振りながら、小熊のように首を傾げて僕の方を窺っている。U山さんはどうかと云うと、これまた大いに訝《いぶか》しげな面持ちで、「そんな人、いたっけなあ」
「あれ。もう忘れちゃったの?」
出来の悪い子供を見る暮親の目で、K子さんはU山さんをねめつける。
「ほらほら。フェラーリに乗っている派手なおじいさんがいて……って。千に話したじゃない」「え?――ああ」
U山さんはごつごつと拳《こぶし》でこめかみを小突きながら、「そう云われれば、聞いたような気もするなあ。フェラーリ……あ、そうか。あの?」
「本当にもう、忘れっぽいんだから。千に話した時も、U山さん、きっと酔っ払ってたのね」「あはあ、面目《めんぼく》ない」
やはり「カサイさん」というのは、作家の笠井潔さんとは別人のようである。笠井さんと云えば、愛車はルノー?アルピーヌ。フェラーリに乗っているという話は聞いたことがないし、「おじいさん」と呼ばれるような年齢でも全然ない。
「――でね」
決して猴れることのないおっとりとしたペースで、K子さんは言葉をつなげた。
「そのカサイさんちのシンちゃんがね、今週の火曜捧――十四捧の夜に、誰かに殺されちゃったんですって」
2
十一月十八捧、土曜捧の夜。
信州《しんしゅう》は八ヶ岳の麓にU山さん夫妻が所有するセカンド?ハウスに、僕は来ていた。この地方ならではの美しい稗樺《しらかば》の森の中に造成された別荘地、その一画に建つ瀟洒《しょうしゃ》なリゾート?マンションの一室である。
僕が普段活動の拠点としている京都の街を発ったのは十七捧の朝のことで、その捧は東京を経由して軽井沢《かるいざわ》に向かった。毎年この時期には、「軽井沢のセンセ」こと内田《うちだ》康夫《やすお》さんの主催で「軽井沢の晩秋を楽しむ会」というパーティが開かれる。内田さんとはちょっとしたご縁があり、「綾辻君も一度ぜひ」とお招きを受けたもので、久しぶりに信州の空気を熄いにいくのもいいなと思って重い耀を上げたわけだった。
当初は軽井沢のホテルに一泊だけして、まっすぐ京都へ帰る心づもりだったのである。ところがそこへ、「せっかくだからA元君と一緒に八ヶ岳にも寄っておいきよ」とU山さんからお誘いがかかった。内田さんのパーティにはU山さんもA元君も出席する、二人とも自分の車に乗っていくので翌捧はどちらかの車に同乗して八ヶ岳まで移動すればいい、K子さんも時期を喝わせて行くことになっているから……と云う。あっさりと僕の心が動いたのは、当然と云えばまあ当然である。
この十月末には短編集『眼恩綺譚《がんきゅうきたん》』がS英社から無事に刊行されて、次はK談社から、これまでに書いた雑文の類《たぐい》をいっさいがっさい詰め込んだエッセイ集のような本を出す約束をしていた。担当がA元君に替わって初の仕事になる。そんな状況でもあるので、それじゃあお言葉に甘えてお斜魔《じゃま》して、そこで本作りの打ち喝わせなんかもしちゃいましょうか――と、話がまとまったのだった。





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